平穏。それが当たり前のように存在している。古人の残した「嵐の前の静けさ」とはこのことを言うのだろうか?
 
懐く青年に「離れろ」と声をあげる少女。
 
こんな風にじゃれあいができるというのは、それは当たり前の事で、いつも通りの事で、
 
その「日常」が崩れていく事など想像もしていなかった。
 
だが、運命というものも性質の悪いもので、辛い試練ばかりを彼らに課すだけだった。
 
 
 
〜〜
 
 
 
「あいたたた…。なにもグーで殴る事ないのに…、酷いなぁちゃん」
「人の嫌がることをしておいて何を言うかッ!!」
にグーで殴られた頬を苦笑いして撫でながらマサオミは言う。
だが、もとはといえばの言う通りにマサオミがに無理やり抱きついたことから始まっている。
それを考えると、被害者は。殴ったのは正当防衛といえるだろう。
「……こんなこと、していられるのは後少しなのにさ」
「マサオミ?何を言ってるんだ?」
「いやいや、ただの独り言だよ」
四鬼門も二つ開放され、残すは二つ。
だが、そのうち一つはマサオミ――神流闘神士ガシンの仲間であるタイザンが守っている。
それを考慮すると、ほぼ残された四鬼門は一つだ。
そして、それが表している事実は、マサオミは本来の名――ガシンに戻り、
マサオミとしての平穏、達との平穏と別れを告げなければならないと言うことだった。
ちゃん」
「なんだ、マサオミ?」
自分が彼女の名を呼んで、振り向いてくれるのがこれで最後かもしれない。そんな事を思うと胸が痛かった。
最愛の人であるを裏切って、マサオミは神流に戻らなくてはならない。そうするのが自分の役目だから。
だが、愛した人を裏切ってまですべき事なのか…。そう、マサオミは悩んだ。
ウツホを復活させなくとも――を裏切らなくとも、なにか道はあるのではないかと。
「…?オイ、マサオミ??」
「…、あぁ…、いや、なんでもないよ」
「??なんだよ、今日のお前変だぞ?」
自分から声をかけておいて一向に話を切り出さない、憂いを帯びた表情を浮かべるマサオミを心配してが声をかけた。
だが、マサオミは苦笑いを浮かべて適当にはぐらかす。そして、不意にいつも通りのおちゃらけた表情を浮かべた。
「――さっきちゃんに殴られた所為かもしれないから、責任もって俺のお嫁さんになってよ」
「ッ!!前言撤回!お前、いつも通りだよッ!!」
嫁になってくれ。そんなふざけた冗談を言われては真っ赤になって怒鳴った。とて年頃の少女。
恋愛に興味がないわけでも、好きな人間がいないわけでもない。
にとってマサオミは一方的なところが嫌い――というか、苦手ではあるが、気になっている存在ではある。
そんなマサオミに「お嫁さんになってよ」なんて言われては、照れない訳がなかった。
マサオミには一言怒鳴って去って行く。
真っ赤になった顔なんて見られたくないし、今の状態でマサオミを直視してはどうなるかわかったものではないからだ。
 
 
 
 
 
「さて…、護衛者ってのも考えようよっては犯罪者だね」
が去ってあたりを静寂が支配した頃、マサオミが不意に言を発した。
「犯罪者とは随分だな」
「だってこれじゃあ、ストーカーと大して変わらないよ?」
音も立てずに現れたのは、天流宗家の護衛者である
犯罪者と呼ばれた事を大して気にしている素振りはなく、冷静にマサオミに言葉を返している。
そんな感情の起伏の少ないにマサオミはやりにくい相手だと再認識した。
「なぁ、ちゃんはどこまで知ってるワケ?俺達のことを」
「さてな。
取り合えず、地流よりもお前達のことを警戒していることは分かるだろ?」
真剣な表情でマサオミは尋ねているというのに、の表情には笑いがある。
だが、よい意味での笑みではなく、それはただの見下した相手に対する笑みなわけで。
そんな表情を向けられてマサオミの感情に怒りが生まれる。
しかし、そんな簡単な挑発に乗ってはいては聞きたいことの半分すら聞き出す事はできない。
そう自分に言い聞かせマサオミは己の感情を押し殺した。
「はぐらかさないでよ。俺はあんまり手荒なマネはしたくないんだけど?」
「俺は構わんが?ここ最近、地流の雑魚ばかりで飽き飽きしていたところだ」
「この…ッ」
乱されるのはマサオミのペース。逆に築き上げられているのはのペースだ。
本当にこの少女は年下なのだろうか?だが、それに答えを返してくれるものはいない。
だが、一つはっきりしているのは、この少女が簡単には口を割らないと言うことだ。
憎らしげにの余裕の笑みを睨みマサオミは舌をうつ。
すると、の表情が一瞬にして背筋を凍らせるような厳しいものに変わった。
「お前に主導権を握らせていては一向に話は進まないようだな。まったく、俺もなめられたものだ」
闇の底を思わせるダークブルーの瞳がマサオミを睨む。
マサオミはの瞳に射抜かれ自分の全てを支配されたような感覚に陥った。
だが、ここで屈する訳にはいかない。なんとか同等の立場でいようと、その身を引くことはなかった。
「アンタの目的はなんだ。俺達みたいな目的でもあるのか」
「いや、あくまで俺の目的は『天流宗家の守護』それ以外はない」
「信用できないね。天流宗家の守護だけを目的としているなら、なぜ俺を疑った?天流闘神士だった俺を?」
「人間の目というのは嘘を付けない。ただそれだけだ」
の目から厳しさが消え、張り詰めた空気が緩んだ。
「だからこうやって態々お前との接触を持ったんだ。
お前は迷っているんだろう?裏切る事を、さんを失う事を」
「…ッ!」
「所詮は他人事、俺がどうこう言ったところでなにが変わるわけじゃない。だが、助言ぐらいはしておこう。
迷いは全てを狂わせる。よい結果を導く茨の道でも、迷いがあれば、それは悪い結果に続くものになるぞ」
「迷うなってこと…か。それほど強い人間じゃないけどね、俺は…」
「甘えるな。そんないい訳をしたところで、いい訳はいい訳だ。
……迷いたくなければ、信じたいものを信じておけ」
そう言いはくるりと踵を返した。迷いのないの背中は堂々としていた。
マサオミはそんなの背中を見て自分の情けなさに自虐的な笑みを浮かべた。
 
 
 
 
 
それから数日後、月の勾玉は失われ、とリクの心にぽっかりと穴が空いた。
信じていた者に裏切られた二人の喪失は大きかった。
「俺は神流闘神士ガシンだ!」
そう言いきった「マサオミ」だった青年に迷いはなかった。
青年の目に光る光にあるのはなにかを貫こうとする信念だけで、それ以外のものは存在していなかった。
「マサオミ……どうしてっ…!」
今まで自分達に向けていた笑顔は全て偽りで、自分達を助けてくれたのは天流宗家――神流にとって必要な存在だったから。
信じていたもの全てが音を立てて崩れていく気がした。
この大きな喪失感が意味しているのは、にとってどれだけマサオミという存在が大きかったかということ。
きっと、きっと自分はマサオミを好いていたんだと失ってから気づく。
遅かった。そんな言葉ではすまされない。
さん、会いに…いきませんか?…ずるずるとその思いを引きずったまま戦うのは辛いことなはずです。
……酷な話ではありますが…、天流宗家である貴女様に迷う時はありません」
「…知っているのか?マサオミの…マサオミの居場所を……!」
「いえ、俺が知っているのはマサオミが現れる場所だけです。
それと…、今会わなければ落ちついて話すことは二度とな――」
「行くよ。私、マサオミに会いたい。会ってちゃんと話がしたいんだ!」
の言葉を遮ってが声をあげた。の目にも強い意志がうかがえる。
戦う事を決めたのだろう。己に課せられた運命と…。
そんなの強い決意を感じたは力強く頷き、の手を取った。
 
 
 
 
 
マサオミに命じられた仕事はウツホの封印を解く事。
着々と事を進めるマサオミの前に二人の少女が姿を見せた。
「こんなところになんの用だい?お嬢さん達」
「聞きたい事があって来たんだ。話を聞いて欲しい」
茶化すように笑うマサオミとは対照的に、は真剣な表情で言葉は放つ。
の真剣な表情を見てマサオミもその面持ちを真剣なものに変えて黙った。それは、暗黙の意を現している。
「お前が私達と笑いあっていたのも、一緒にいてくれた事も全ては偽りで、お前は神流の道に迷いはないんだな」
の言葉を聞きマサオミは小さく苦笑した。
笑い飛ばされるかと思ったは少し驚いたようにマサオミの顔を見ている。
「…嘘なんかじゃない。あの日々に嘘、偽りなんかない。俺は本当に楽しかったんだ。
でも、俺は神流闘神士。苦楽を共にして生きた仲間を裏切るなんてできない。
だから、俺は戦うよ」
「なら…。私もリクを、皆を守るために戦う。天流宗家としても、太刀花、個人としても」
静寂が全てを包んでいた。だが、それは不意に崩される。破壊音と張り上げられた怒声。
とマサオミの戦いが始まった。迷いのない両者の戦いは熾烈を極めている。
技の押収戦が続き、どちらも一歩も引かず、平行線な戦いが続いている。
その二人の戦いに加勢も、邪魔もする事もなく、はただ見守っていた。
に手を貸せば戦いの決着はすぐにつく。
しかし、は手を出す事はなかった。手を出してはの決意が、マサオミの決意が無駄になってしまうから。
「相思相愛の二人が戦うとは……、神も心底性が悪いな」
自分のことでもないのに自虐的な笑みを浮かべはマサオミの言葉を思い出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
「俺は信じる。自分とちゃんをね」