暗がりに、ぽっと小さな明かりが灯っている。明かりは炎。小さな風にすら揺れて影もゆらゆらと妖しく揺れている。
そんな不規則に揺れる炎を明かりに書物に目を通していた男が不意に顔を上げ、
彼が住まうこの家の唯一の出入り口に目をやった。戸の障子の部分からうっすらと人影が見えた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
戸を開いて中に入って来たのは一人の少女。
しかし、その身なりは少女のものではなく、どちらかと言えば青年のように見えた。
そんな青年に見える少女に男はにっこりと笑顔で出迎えの言葉をかけるが、少女は無愛想に返事を返した。
だが、それに男はなにを注意することなく再度書物に目を向け始めた。
「今日は随分と早かったですね」
「今日の相手が予想以上の尻軽な女だった。おかげで従順になるのにそんなに時間は用しなかったんだ」
「尻軽ですか。君も人のこといえないんじゃないですか?」
「俺の場合は仕事上、仕方なくだ。好き好んで抱いてるわけじゃない」
少女の言葉を聞いて男はクスクスと笑った。尻軽。
そんな言葉を、この土地でも有名な遊び人である少女が嫌悪感をその顔に出して言っているのだ、おかしいのは当然だ。
だが、少女は男に笑われて癇にさわったのか不機嫌そうに自己弁護をした。
だが、そのことも男は十分に理解しているはずだというのにこんな事を言うあたりかなりの性悪といえる。
そんな事を頭の片隅で思いながら少女は尋ねたかった事を尋ねた。
「ガザン、今日は配達はないのか?」
「今日は配達ではなく、お得意様のところに注文を取りにいこうと思います。もちろん、さんも同行するんですよ?」
「…護衛が必要なのか?」
男――ガザンに同行するように言われ、少女――は不思議そうに首をかしげた。
ガザンは「そちら」の道では有名な薬師で、はその薬を配達することがガザンに与えられている仕事だった。
だが、注文は必ずガザン自身が受けていた。注文を受けるときには、絶対に仲介人や間者を通さずにいた。
なのに今回はなぜかに動向を命じた。それがにとっては不思議で堪らなかった。
「僕は君の事を思ってお誘いしてるんですよ。今日は大人しく僕に従ってはいかがですか?」
「……注文を受けにいく事には従う。それ以外には従わないからな」
「ふふ、バレちゃいましたか」
警戒しつつ返事を返すを見て、ガザンは残念そうにクスクスと笑うだけだった。
 

 

 

 

 

けして派手ではない。寧ろ地味なはずの着物。
しかし、ガザンの横にいる少女がその着物を着るとその地味さは何処かと消え、姿を見せたのは儚さを持つ美しさだった。
少女は黙ってガザンの横に座っている。
「ガザン、その女を売りにきたのか?」
「まさか。
僕がそんな低俗で野蛮な事をすると思ってるんですか?それとも、僕がお金に困っているとでも思ってるんですか?」
嫌味交じりにガザンに言葉をかけたのはこの土地の遊郭一の遊女霜花太夫――タイザンだった。
しかし、そのタイザンの嫌味は綺麗に二倍どころか三倍近くにもなってタイザン自身に返っていた。悪意を完全に隠した笑みを浮かべて言葉を返してくるガザンからタイザンは視線を逸らして気まずそうな表情を浮かべた。
「僕は自慢しに来たんですよ。こんな可愛い弟子がいることをね。…ああ、あとついでに注文を受けに」
「注文を受けるのはついでか」
「ええ、ついでですよ」
可愛い弟子を自慢しに来た。しかもそれがメインで、注文を受けるのはついで。それが物語っている事はただ一つ。
ガザンはただタイザンをからかいに来ただけと言うことだ。
それをすぐに理解したタイザンは怪訝そうに笑顔のガザンを睨みつけた。
しかし、そんなことでガザンがたじろぐ訳も、下手に出る訳でもなく、ひたすらにガザンの優勢だけが続いていた。
「……さて、冗談はこのくらいにして注文を受けたまわりましょうか?
ミカゲ、君は別室で待たせてもらいなさい。……部屋の一つぐらい簡単に用意できますよね?霜花の」
「まったく、性の悪い…。、その女を開いている部屋にでも案内しろ」
タイザンは自分の横に控えていた少女――にガザンの弟子――ミカゲを案内するように言った。
はタイザンの言葉に笑顔で応じ、ミカゲに微笑みかけた。
ミカゲは一言「失礼致します」と言っての後に続いた。
「あのという子…口が利けないみたいですね」
「ほぉ、分かるか?」
「道は違えど僕は薬師。人の異変にはすぐ気づけないとやっていけないんですよ。
……そうだタイザン、さきほど僕に対して『性の悪い』と言ってくれたので、5割ほど…増額してあげますよ」
「………」
 

 

 

 

 

に案内された部屋に腰を下ろしミカゲ――
いや、はここに自分を連れてきた、いや、霜花太夫に会わせてくれたガザンに感謝した。
の今一番の仕事は、とある遊女をこの遊郭一の遊女にする――いや、仕立て上げる事だ。
その仕事上、名のある遊女はにとって目障りな存在だ。
しかし、今の仕事上では邪魔だが、時がめぐればもしかすると依頼人、の金づるになるかもしれない。
そんな理由ではその遊女達を今のところ生かしてはいた。しかし、遊女としては役に立たないだろう。
は毎晩自分にとって邪魔な遊女達を抱いていた。に抱かれた遊女達はゆっくりとの力に溺れていく。
そして最後には以外の人間という人間に興味を示さなくなる。
気の長い策ではあるが、「名のある遊女」達を殺すにはこれが最もリスクの少ない方法だ。
だが、この遊郭には手ごわい遊女はいる。
その中でも一際手ごわいだろうと予想しているが霜花太夫――タイザンだった。
はそのタイザンを一度、交わる前にどうゆう人間か会っておきたかった。
もちろん、タイザンの弱点や傾向を調べるためにだ。そのためにこの置屋に忍び込もうと考えていた矢先のことだった。
ガザンはの仕事の仲介人を請け負っているためにの仕事の事情をよく理解してくれている。
そんなガザンだからできる心遣いだろう。
「さて…、後は攻め立て方と、香だ――、……まだいたのか」
不意に自分以外の気配があることを感じ取りはその気配のある方向へと目を向けた。
そこには、タイザンによってを案内するように言われたの姿があった。
遊女には珍しいく、穢れを知らなそうな顔をしている。
まぁ、霜花太夫の傍に仕える遊女なのだからそれなりに優遇されているのかもしれないが。
が怪訝そうな表情をに向ける。
だが、は媚びる事もなく慌てることもなく、ただ少し、不思議そうに首を傾げるだけだった。
「私は女。待っていても金になるようなことはしない。私の元にいても時間を無駄にするだけなんだけど」
無愛想に冷たくいい放つ
しかし、の言葉を否定するように首を横に振ってニコリと笑った。
「……あなた、話せないの?」
笑顔をに向けていても、が口を開く事はなかった。
興味があってここに残っているのなら、声の一つもかけてくるはず。
なのにこのはただ笑顔を向けての話を聞くだけ。しかも、の言葉に興味を引くような言葉などない。
色々と考えた結果、が話せないのではないかという結論にいきついた。
「っ………」
の予想はあたったらしい。「話せないのか?」と問われては困ったように苦笑した。
それを見ては、「ほぉ」と一言洩らして値踏みでもするかのようにじろじろとを見つめた。
は急に自分に興味を示したに驚いたらしく、一瞬身を引いたが失礼な事をしてはならないと思ったのか、
ぐっと踏みとどまった。
「昔は話せたんでしょ?なら、口ぐらい動かしたらどう?人の心を察するのは苦手だけど、読話は得意だし」
「……?」
が口を動かすように言うが、はいきなりのの言葉に戸惑い、ついでについいつもの癖で首をかしげた。
だが、それをが見逃す訳もなく、不機嫌そうにの唇に触れた。
「だから、不思議に思うならその口を動かしなさいな。あなたの口は飾り物なの?」
「!」
なにやら雲行きの怪しい空気になって来た事をはその肌で感じ取ったのか、激しく首を振った。
しかし、その行動がの機嫌を損ねると言うことをは焦りのあまりに忘れている。
「…次、この口を使わなかったら。……大変な目に会わせるよ?」
―ご、ごめんなさい!
に攻めたてられ、は慌ててペコリと頭を下げた。
だがそのとき、の口はすぐに見えなくなってしまったが、動いていた。
口を動かすようにしつこく言っていたはこうも簡単に口を動かしたに拍子抜けしたのか驚いた表情をぽかんと浮かべている。
「そんな簡単に使えるならさっさと使いなよ。無駄な気力使わせないでくれる?」
―え…、あっ……!
疲れたように言う
の言葉を聞いて自分が口を動かしていることに気付いて驚いたように口を押さえた。
だが、その口から音は漏れない。漏れているのは吐き出した空気だけだ。
「自分の体にくっついているものが動いただけで、そんなに驚く?普通?」
―動くと思ってなかったから……。えっ!?
「…なに驚いてるの。言ったでしょう?私は読話は得意なの。口の動きさえ見れば何を言ってるのか分かるの」
淡々と会話を進めるは驚きのあまりに固まっている。
自分を拾ってくれたタイザンや、昔から馴染みのある人間となら、ある程度の身振り手振りで会話を進める事が出きるが、
口を動かして人と会話をするというのは数年振りのことだった。
しかも、会話をしているのは今日はじめて会った人間。そうなれば、驚かない訳もない。
「読話を使える人間が珍しいっていうのも…それこそ珍しいな……。周りにできる人いないの?」
―さ、さぁ…?
不思議そうに問うだが、は「読話」という言葉自体今聞いたばかりなのだ、分かるはずもなく適当な言葉を返した。
すると、不意に襖が開き、穏やかな笑みを浮かべた男が姿を見せた。
「読話なんて、そう間単に使えるものではありませんよ。
珍しいのはどちらかというと僕達の方でしょうね。さん、苛められませんでしたか?」
―い、いえ…。
「そう。それならよかった。
さてミカゲ、もうそろそろ僕達はおいたましましょう。これから皆さんは仕事の時間ですからね」
ガザンにそう言われてはふと聖窓に目をやった。
日は後少しで完全に闇に消える。ガザンの言う通りにそろそろ遊郭が動き始める時間帯だ。
「御意。…今度あった時はすんなりとその口、動かしてよ?じゃないと――」
「君に人を脅してる暇はありませんよ?今夜は霜花から教えてもらった新しい『遊び』を早く験したいんですから」
に釘をさそうと口を開いたであったが、不意にガザンに首根っこを掴まれその言葉を遮られた。
しかも、不吉な宣告をされの頭がかき乱された。
「んなっ…!?ちょっと、待て…っ!……っ、また――」
言いたかった言葉を言いきる前にはガザンによっての前から姿を消してしまう。
慌しく去っていく訪問者達を呆然と立ち尽くしながら見送る。なんとも不思議な訪問者だった。
しかし、不思議であって不快ではない訪問者。
―…また、来てくださいね。
達の去って行った方向には笑みを向けてそう言った。