「霜花側に寝返るつもりかしら?」
の前の席に座っている女が楽しげに笑みを浮かべた。
だが、ことを問われたは少し困ったような表情を浮かべた。
の前にいるのは、に依頼をよこしたカシンというとある置屋の女将だった。彼女はかなりのやり手で、
が霜花太夫のもとに行ったことを、昨日の夜のことだというのに次の日の朝には確り知っていた。
どこで情報をし入れてくるのか知りたいものだ。まぁ、絶対に口を割るはずがないが。
「ふざけるな。昨日霜花太夫に会いに行ったのは、薬師のガザンとその弟子のだ。俺じゃない」
「ふぅ〜ん…。まぁ、そうゆうことにしといてあげるわ。これは昨日の代金ね」
納得したと言うよりは、からかい終わってスッキリしたという感じでカシンは、の前に金の入った袋を差し出した。
は不機嫌そうではあるが、報酬とは言え、金をもらったのだから「一応」程度に礼を言った。
「ねぇ、今日は仕事を休みにして遊んでいかない?タダでいいわよ?」
「普段いらんだけ人を抱いているんだ。休みまでやってられるか」
「ん〜、なら趣向を変えて抱かれてみる?」
妖艶な笑みを浮かべてカシンはに迫る。
カシンは約一年ほど前までは太夫としてこの遊郭でその名を轟かせ、その身を売っていた。
だが、太夫という立場の面倒くささに嫌気がさし己の手で店を持った、この遊郭でも「伝説の遊女」として語り継がれている女だ。
噂では今でも多少その身を売っているらしいが。そんな、高嶺の花に近い女に誘われてもはなびかなかった。
まぁ、同姓というのもあるが…。昨日の事を思うと「抱かれる」という言葉全てを拒絶したい状況なのだ。
「勘弁してくれ…!昨日の…、昨日の……、あ゙あ゙ッ………!!!
訳のわからない言葉を大声で叫び、は机に伏した。
なにに対しての恐怖かは分からないが、はガタガタと震えている。
だが、カシンはが震える意味に察しがついているのか、ぽんぽんとの肩を叩きながらを宥めた。
「ごめんなさいね。まさか、アレの後だとは思わなくて……。今回も毎度の如く相当怖かったのね」
「駄目だ…。どれだけ場数を踏んでも………勝てない…!!」
「普通の人間じゃ無理よ。多分、この遊郭のどの遊女でもアイツには勝てないから。
 
 
 
……あ、私は勝てるわよ?
いや、聞いてないよそんなこと
 
 
 
「あらそう?」などと言いカシンはケラケラと笑う。
しかし、そこで明らかになったのは、はどうにも危険な人物ばかりに好かれるということで。
は軽く生きる自信を失いかけた。だが、この二人の所為で死ぬというのも、
なにかが嫌だったので「まだ死ねない」と自分に言い聞かせてなんとかは立ち直った。
アレの後ならあまり無理はさせられないわね。アイツにどんな薬を飲まされたか検討つかないし……」
「薬は問題ないが、精神的にキツイからそうして欲しい…」
立ち直った=なんとか昨日の事を誤魔化したというのに、思いっきり掘り起こされ、
気が滅入りつつもは確りと自分の意見を主張した。
ここで、主張しなければもっと自分を追い詰めてしまうことになる。それだけは流石のも勘弁願いたかった。
「ええ、今日はお休みでいいわ。でも、家に帰って大丈夫なの?」
そうカンシに問われては自虐的な笑みを浮かべて「フッ」と笑った。
その瞳に涙を浮かべて。
 
 
 
 
 
家に戻ったを向かえたのは、元気溌剌のガザン氏。
なんなんだろう、この別に肌の手入れをしているわけでもないのにツヤツヤに輝くもち肌は。
それに、床についたのは今日の明け方少し前だというのに眼の下には隈の「く」の字も存在しない。
この上なく、健康体な上に上機嫌だ。
天と地ぐらい状況の違うガザンと
立ち尽くしたままは「なにこの状況」と心の中でツッコミを入れた。
果てしなく、誰にツッコミを入れたかは分からないが。
「おかえりなさい。今日のお仕事は休みですか?」
気持ちが悪いほどに機嫌のいいガザンに問われては無言で首を縦に振った。
首を縦に振ったを見てガザンは満足そうに微笑み「それは良かった」と言った。
しかし、ガザンのことなのだから、こうなる事ぐらい容易に予想していただろう。
「やはり、こちらの事情を良く理解してくださっている方が依頼人というのは楽ですね」
「……うん」
「どうしたんです?随分と元気がないですね」
ああ、「お前の所為だよ」と笑顔で言ってやれたらどれだけ気が晴れるのだろう。
そんな事を思いながらは苦笑いしながらも「色々あった」とだけ返した。
「カシン殿が何かしましたか?」
「いいや、ちょっと誘われかけただけ」
「だからお前の所為だよ」と言い返してやりたいが、
言い返した次の瞬間に起きる惨劇があまりにリアルに、尚且つ容易に想像できるだけには言い返さずに、
申し訳ないがカシンを言い訳に使った。
「そうですか…」
酷く難しそうなその顔に浮かべながらガザンは思考している。
は本当にこの今の依頼の依頼人がカシンであって良かったと心の底から思った。
ほぼ最強(?)に近いガザンも「伝説の遊女」には敵わないようで、
苦渋に満ちた表情を浮かべるだけで、特に詮索することも、責める事もしなかった。
それと、カシンはを気に入っているので、の味方をしてくれる。
だから、もしもガザンがカシンを問いただしに行ったとしてもカシンはのいいように話を合わせてくれる。
まぁ、もちろんのこと、後々その報酬は求められるが。
「相手がカシン殿では、僕ではどうする事もできません…。不甲斐無いですね…」
「いや、できたら困る」と心の中で言いながらは、問題ないことを告げる。
もしもの話で、ガザンより力の上の人間がいなかったら…。なんて考えると、の背筋を悪寒がかけぬけていった。
「そちら」の依頼で何度か殺されかけたことがあったが、そのときの悪寒などよりよっぽど肝が冷える。
……ようするには、死を予感するよりも恐ろしいということか?ガザンがピラミッドの頂点に立つということは。
「…地獄」
「なにがですか?」
「――。た、太陽のない毎日が」
「そうですね。薬の材料も干せませんし、『そちら』の仕事ばかりでは気が滅入ってしまいますからね」
独り言を聞かれて一瞬心臓が動くことを放棄しようとしたが、無理矢理動くことを命じてなんとかはガザンに言葉を返した。
少々不自然ではあったが、取り合えずガザンが普通に会話を続けてきたのではホッと胸をなでおろした。
「あ、そうだくん――ではなくて、
「なん…でしょう……?」
。突然その名で呼ばれは意識を手放しかけた。という名は薬師ガザンの弟子の名。
態々その名でを呼ぶのだ、なにかあるのだろう。それがにとってこの世で一番恐ろしいものだったりする。
「配達の仕事をお願いします。
届ける場所は霜花太夫のところです。僕の使いといえばすんなり通してもらえると思いますよ」
「ぎょ、御意」
「?なに脅えてるんですか?まさか、霜花が怖いんですか?」
「まぁ、そういうことにしておいてください……」
断じて、「お前が怖いよ」なんて言えるはずもないだった。
 
 
 
 
 
霜花太夫のいる置屋に到着し、太夫に会わせてもらえるように掛け合ってみたものの、只今太夫はお休み中とのこと。
それを受け、はどうしたものかと考えたが、都合のいい偶然だが、
不意に目に入ったを呼び止め、太夫が起きるまで待たせてもらえるように頼んだ。
に特に予定は入っていなかったようで、快く承諾してくれた。
店側も「ガザンの使い」ということで無償でいいと言ってくれた。
「恐ろしい師を持ったものだ」と思いながらに案内されるがままに足を動かした。
「はぁ、不幸中の幸いか…」
―…、どうかしたんですか?
「…まぁ、色々と恐ろしい目にあったのよ。……聞きたい?」
精魂尽きる五歩ぐらい手前な感じで深い溜め息をついた
そんな様子のを心配してが不安げに声をかけるが、
の気持ちをくむことなく、自虐的な笑みを浮かべて言葉を返した。
の「聞きたい」という一言になぜか、物凄い恐怖感を感じた。
聞いてはいけないことかもしれない、でも、にとってそれはとても辛い出来事なのだろう。
だがらこそ――
―聞かせてもらえませんか?私で力になれるなら…、なりたいんです。
意外な返答に流石のも呆気にとられてしまった。
普通の人ならば、「聞きたくないです」と答えるように言ったはずなのに、
の目の前にいる少女は、「聞かせて欲しい」と言ってきたのだ。
やはり、この少女はよほど辛い人生でも送ってきたのだろうか。
「辛い事」を抱えることがどれだけ辛いことか彼女は知っているのだろう。
だからこそ、の辛さを和らげようと「聞かせて欲しい」と言ってくれたのだろう。
強く優しいを見ながらは笑みを浮かべての手を取った。
「ありがとう。は優しいね」
―そ、そんなことは…
「あるよ。なに?私の言葉が信用できないの?」
昨日あったばかりの人間を信用できるはずもない。
我ながら馬鹿げた質問をしたものだと思いながらの返答を待った。
だが、またしてもの予想とは全く違う答えを返してきた。
―そんなことないです。嬉しいです。
いい意味で、期待を裏切る少女。そんな少女を前には楽しげに笑う。
「参ったね、は……綺麗過ぎるよ」
―そんな…。さんの方が綺麗ですよ。
謙遜する。本当にどこまでもできのいい少女だ。
そんな事を思いながらは「中身のことだからの方が綺麗だよ」と一言言って苦笑いを浮かべた。
「…そうだ、なんか髪乱れてるから結ってあげる」
―いいんですか?
「いい。励ましてくれたお礼」
―……!…ありがとうございます。
 
 
 
 
 
手馴れた手付きでの髪を結い上げていく。
髪の毛一本としては逃さずに纏め上げ、徐々にの髪形が形を成していく。
は鏡でできあがっていく自分の髪形を眺めながら手際よく仕上げていくに感心した。
自身は、長く美しい髪を持ちながらも結うことをしていなかったので、
できないのかとおもっていたが、何らかの理由で結わないだけのようだ。
――が髪を結わないぶっちゃけた理由は、面倒だからなのだが。
―お上手ですね。
「そう?一応、師匠に『女性としてのたしなみです』とか言われて覚えさせられたのよ」
としては、必要ないスキルだと思っていた髪結いの技能が思わぬところで役に立った。
覚えるように促したガザンに心の中で感謝を言いは口を動かしながらも手は確実にの髪を結い上げている。
だが、不意に己の手に違和感を感じた。
不思議に思って手を自分の目の前に持ってくると、自分の手の平に赤い花が咲いている。
不思議に思いながらも頭に引っかかった記憶を引き出せば理由がすんなりと現れた。
いつぞやの「そちら」の依頼でできてしまった傷だ。その依頼をこなしてからまだ数日しか経っていなかった。
おそらく、完全に塞がっていると思っていた傷が実は塞がっていなかったのだろう。
そんな傷に簪かなにかで更に傷をつけてしまい、赤い花――血がその姿を見せてしまったのだろう。
痛みは感じないものの、流石に血を流したままというのも流石に気持ちが悪い。
――、…………?」
止血のためになにか布でもわけてもらおうと、に声をかけただが、
先程まで目線の先にあったはずのの顔がない。
不思議に思いながらはあたりをきょろきょろと見渡した。
そして、は見つけたは真っ青な顔で畳の上に倒れていた。
「…………」
流石のも状況の整理が追いつかず、10秒ほど固まった。
そして、10秒後。
 
 
「うわあぁあぁぁ!?」
 
 
こんな声が出るとは思っていませんでした。(後日、本人談)
 
 
 
 
 
布団で眠っている。気まずそうに正座している
そして、殺気立った表情でを睨む、この置屋において最も力のある存在――霜花太夫のタイザン。
妙な状況の面々がの部屋に集まっていた。
「貴様、どうゆうつもりだ」
「言い返す言葉がありませぬ」
タイザンがに言葉を投げると、はひたすらに縮こまって困惑と申し訳なささにもまれていた。
タイザンがの大声を聞きつけての部屋に足を向けると、
青ざめた表情で倒れていると、血を流した状態でが倒れたことにパニック状態に陥っているがいた。
大体のことの状況は掴めたが、色々とわからないことはあった。
「ふんっ、アイツの弟子というからどれほどふてぶてしい奴かと思えば…」
「……師匠にふてぶてしい態度などとっては三日…、いえ、五日は眠らせていただけませんよ…」
を見て大層つまらなそうに言うタイザン。
だが、は昨日の事もあった所為か、思いかけず明後日の方向を見ながらボソリと言ってしまった。
しかし、ハッとして我に返れば自分が言葉を向けた人間の立場を思い出して慌ててタイザンに謝ろうと顔を上げた。
「太夫ど――」
 
 
 
なんでだろう?を見る目がタイザンの目が物凄く哀れみを含んでいた。
しかも、物凄く哀れんでいるらしく目には少し涙が見える。
思いにもよらない行動が立て続けに起きたせいかの頭は段々と状況についていけなくなっていた。
だが、タイザンが近づいて来たことに気づき、
相変わらず哀れんだ表情でを見るタイザンには「太夫殿?」と声をかけた。
「…すまん。
アイツの弟子であるお前が――洗礼を受けていないはずがないのにな。お前苦労しているのだろう?」
「『お前も』とは…、
 
 
 
 
 
 
………って。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
!?
 
 
 
「ああ、『お前。』だ」
同じ痛みを、同じ辛さを持つものは性格どうあれお互いに親近感を抱き、なにかが芽生えるものだ。
そして、その痛みや辛さに関連したことだけは目だけで会話できるという。
そして、ここになにかに芽生えた者が二人。
「太夫殿…!!」
「タイザンでいい…。同士よ」
ここにタイザンとの友情が芽生えた。しかし、エラい痛い友情である。
「あの、ところで太夫殿。殿が倒れた理由は…?」
「ああ、は血に嫌な記憶でもあるようで、血を見るとこうやって倒れるときがある。
――ところで、お前は特別だ。呼び捨てでも構わんが?」
特別な存在――同士であるのだから呼び捨てられてもまったくもってタイザンは不快ではないのだが、
はタイザンの申し出に苦笑した。
「彼の霜花太夫殿を呼び捨てとは恐れ多い。
名を言わせていただくだけでも身にあまります。……タイザン殿でご勘弁を…」
がタイザンに断りを入れる。すると、図ったかのようにが目を覚ました。
寝ぼけているのか少し目元にはりがない。
目を覚ましたに倒れさせてしまった原因であるが心配そうに近づいた。
しかし、は反射的にから距離をとった。一瞬、呆気に取られるとタイザン。
二人とも、がこんな対応をするとは思っていなかったのだろう。
だが、それはその行動をとったも同じで、自分のとった行動に気づき焦ったようにを見た。
―あ、あの…!
「……ゴメン。血が苦手だってこと知らなくて…。でも、不可抗力とは言え女の前に血は…」
馴れ故の失敗だった。血が傷ついた人間の肉体から出るものだということをはすっかり忘れていた。
血は、一部の人間にとっては刀をつきつけられた時のような圧迫感に襲われる人間もいると、
ガザンからは聞いていたが、すっかりそんな事実はの頭の中から姿を消していた。
「これからは気をつける。だから…、怖がらないで欲しいな」
―!!怖いなんて思ってません!ただ…、血を見たことを思い出して…気が動転していただけなんです。
―だから、私は全然、さんが怖くありませんよ。
にっこりと笑顔で言ってくれるの顔も笑顔になった。
が笑顔を向けてくれなかったらどうしようかと不安だったが、の期待をいい意味で裏切ってくれる。
それがにはなぜか嬉しかったが、切なくもあった。
「(綺麗過ぎるな、俺には……)」