「また、お狐サマが出たんだとさ」
の前で猪口に酒を注ぎながら男は楽しそうに笑いながら言った。
笑う男とは対照的に、は無表情で卓に頬杖をついていた。
ここは、遊郭の中にある一軒の酒場。この遊郭で老舗なわけでも、繁盛しているわけでもない。
だが、が足を運んだのは偶然ではなく必然。目的があってはこの酒場に来ていた。
「奉行も役人も随分と困っている様子だ。
なにせ、目撃者も証拠も…それどころか死体すらないんだからな」
「…それで、役人達はどう出るつもりだ」
「まぁ、町民達も『お狐様』だと信じこんでる節があるから、何れ流すだろうさ」
男はケラケラと笑いながらに言葉を返した。
と男が話しているのは、この土地で噂になっている「お狐様」の話だった。
お狐様というのは、この地で夜な夜な起きている変死の犯人のこと。その変死というのは実に不可解なもので、
朝になると昨夜までなかったはずの血痕と血のついた着物が道端に突然姿を現すのだった。
人の成せる技とは思えない現象故に、人々は「お狐様の祟り」と口々に言い恐れた。
「だがまぁ、それが得策だろうな。下手に『お狐サマ』を捕らえようとした所で返り討ちになるのがオチだろうし。
なんと言っても相手は神様の使いだからな」
「都合のいい話だ」
「人の口から出た噂は簡単に人のいいように形を変えるもんさ」
露骨に機嫌の悪い声音で言う。だが、相手の男は相変わらず愉快そうに笑っている。
は男が笑うことを特に咎めなかった。男が笑ってしまう理由にも共感する節があるのだろうか。
「それにしても、昼間から遊郭に来るとは……。いいご身分だ」
不意にが話題を切り替えた。男はの嫌味を受けて大層愉快そうに笑った。
「いいご身分か、そりゃ傑作だ!」
「…傑作か?」
「んー、傑作というよりかは事実だな」
ケラケラと笑いながら言う男に呆れた視線を向ける
男は名をビャクヤと言う。格好といい、口ぶりといい、一見同様に遊び人に見える。が、それは違う。
ビャクヤは役人の事情に深く精通した人間。――いや、彼自身が(一応)役人だ。
しかし、同僚の役人からは嫌われ、上司からお荷物としてしか見られていない。
仲間内の人望はまったくと言っていいほどない役人だ。
だが、彼には二面性があるらしく、そのもう一つの顔で役所の事情を仕入れているようだった。
「あー、ところでお前、ここ最近霜花太夫の所に通ってるらしいな」
「誰からの情報だ…。俺は霜花太夫の所に通っている訳じゃ――って、俺は通ってない」
ビャクヤに問われては面倒くさそうに返答しようとしたが、
不意に「」が通っているわけではないことを思いだし憎らしげにビャクヤを睨みながらビャクヤの言葉を否定した。
自分の思惑通りに口を滑らせたを上機嫌で眺めながらビャクヤは「カッカッカ」と笑う。
勝ち誇った様に笑うビャクヤにの怒りは更に増す。
「未熟な俺も悪いが、公の場でとはアンタも存外性質が悪い」
「いやぁ〜、久々に抵抗する話し相手だったからついつい気合が入ってな。
役所は馬鹿ばかりでつまんないぞー」
「笑顔で言われても全くもって説得力がない」
「だろな」
「だァ〜んなァッ、今夜あたりうちに遊びにこないィ?」
とビャクヤの会話の間に突然甘ったるい声が割りこんできた。
よく見れば、ビャクヤの背中に一人の女が張りついていた。
女は甘えるよにビャクヤに抱きつき、誘うように声をかける。
「最近、旦那が真面目に仕事するもんだから、あたし寂しかったんだよォ??」
「おぅ、それは悪かったな。お前に貢ぐために汗水流してきたんだ、多めに見てくれよ」
「……ここは置屋じゃない。囁きあうなら置屋か揚屋に行け」
媚を売ってくる女にビャクヤはあしらいもせずに笑顔で答える。
はビャクヤと女のやり取りに吐き気がするのか露骨に嫌悪感を剥き出しにして女とビャクヤを見て言った。
すると、女はビャクヤに抱きついたまま、整えた顔を歪めてに反論した。
「もぅ、気分が削がれるわねェ。お兄さん、男の嫉妬はみっともないわよォ?」
そう言いながら女は見せつけるようにその身を更にビャクヤに寄せる。
普通の男であれば、この女の体を使った挑発に簡単に乗ってくるだろうが、ここは
簡単に乗るはずがない――というか、そんな挑発に乗るはずがない。
「なんだったら、イイ子紹介するけどォ?」
なかなか食って掛かってこないに痺れを切らせたのか女が更に発破をかけてくる。
すると不意にの表情が不適なものに変わる。
女は突然見せつけられた女である自分以上の色気をかもし出す男に一瞬たじろいだ。
は女がたじろいだことに気づきニヤリと笑う。
そして、座っていた椅子から立ちあがり去り際に女の耳元に囁く。
「残念、俺は高い女しか抱けない体でな」
「なっ!?」
「また頼む」
「御意ー」
ビャクヤに一言言い残しは外へと消えていく。
プライドを傷つけられ顔を真っ赤にして怒りに堪える女を見ながらビャクヤは笑いを堪えた。
しかし、あまりの可笑しさにビャクヤの体は小刻みに震えている。
それに気づいた女はヒステリックに「笑わないでよ!」と吠えた。
だが、ビャクヤは言葉を返さずに喉を鳴らしながらもこみあげてくる笑いに堪えていた。