ふと、耳に入ってくるのは、風に揺れる木々のざわめきと、愛らしい鳥のさえずり。
ふと顔を上げれば、頭上に広がるのは雲もまばらな青い空。
ああ、なんて穏やかな時間なんだろう――と、思ってしまうけれど、でもこれは本物の平穏じゃない。
これはあくまで守られて初めて成り立つ、仮初めの平穏だ。
今、主たちは過去の世界で歴史修正主義者――その手先である時間遡行軍と戦いを繰り広げている。
歴史修正主義者たちの野望を止めなければ、過去が狂うことで因果律が狂い――「今」の世界が滅んでしまう。
世界の消滅を防ぐため、刀剣(わたし)たちの主――審神者は刀剣を率いて戦いの場へ赴き、過去を守っていた。
戦いの場に、油断や慢心は絶対に許されるものじゃない。
だからどんな戦いであっても、常に隙のない布陣を組んで戦いに臨むことが推奨される。
そう、隙はあってはいけない――足手まといがいてはいけないのだ。
私――白がこの本丸に刀剣女士として現界して早一週間。
ここでの生活にもすっかり慣れ、自分の時間を持つ余裕ができたくらい――なんだけれど、
それより重要な出陣を、私はしたためしがなかった。
ここにいる刀剣の多くは、名立たる刀匠が打った刀や過去の偉人が愛した刀たち。
でも私はきっとそうじゃない。原典の打ち手こそ、影の名工ではあるけれど、ただそれだけの刀。
一応、可能性として新撰組隊士の刀だったんじゃないか――って可能性はあるけれど、
それでも歴史の片隅にも残らない名もない隊士の刀だったに違いない。
…だから、他の刀よりも霊格が劣っているという自覚はある、のだけれど――。
「はぁ……」
つい、漏れてしまうため息。
だって主は言ったのだ。自分の真価を偽らないのであれば、家政婦扱いはしない――と。
なのにこうして本丸に残されて、家事と修行を繰り返す日々を送ることになっているということは、
それだけ私が頼りなく見えているから――なんだろう。
他の刀剣たちよりも霊格は劣るし、気力がなければ半人前以下――主が実戦への投入を渋る気持ちはわかっている。
けれど、それでも私は刀剣なのだ。主の力になりたいし、刀としての力も揮いたかった。
…でも未だその願いは叶わない。その不満がちびちびと胸の中に蓄積して、私の心に暗い影を落とす。
落ち込んだところで、なにがどうなるわけじゃないとわかっていても――自分なりに精一杯努力しているだけに、どうしても落ち込んでしまう。
…ああもう、情けないなぁ……。
また、ため息が漏れる。うっかり心に落ちてしまった暗い影。
それを振り払うように両手で頬をパシパシと叩くと、痛みと衝撃で少し思考が晴れる――
――けれどそれは一時的なもので、あっという間にまた私の頭には靄がかかってしまう。
ああもう情けない――と、大きく頭を左右に振り、余計な思考を追い出していると、
不意に呆れを含んだ「おい」という声が私にかかった。
「う゛っ?!――ふ、ぁ、や、山姥切さんっ」
「…なにをしている」
反射的に、声のする方へと振り返れば、
そこにいるのは、目深に所々破れた布を被った支子色の髪を持つ男の人――山姥切国広さん。
任されている家事――洗濯物が終わったら手合わせに付き合ってもらう約束をしている人だ。…も、もしかせずとも……?!
「ごっ、ごめんなさい!待たせてしまって…!」
「……違う。早くはじめたいから迎えにきただけだ」
「ぇ、ぁ……そ、の…?」
「仕事が終わっているならいくぞ」
そう言って、私の返事も聞かずにきびすを返す山姥切さん。
少し強引――だけれど、今はそれがありがたかった。
これで余計なことを考える間が埋まる――少しは前向きに、そして少しでも自分の願いに近づけるんだから。
足元に置いた洗濯籠を取り、走り出す。
少しでも、少しでもいいから早くみんなに追いついて、実戦に――主の役に立ちたい。
そう思えば、心に落ちていた暗い影は消え――その目標に向かって、私はひたすら真っ直ぐに走り出していた。
山姥切さんが、この本丸へやってきたのはつい数日前のこと。
主が時間遡行軍との戦いの中で回収してきた刀を触媒に現界した刀剣男士だ。
…私が言うのもなんだけれど、その屈折した生まれとあり方から、山姥切さんは他者への不信が強い。
そしてそれは、刀剣(なかま)だけに留まらず、主に対してもで。
必要以上に他者と馴れ合うことをしない――のだけれど、写しという共通がある私は、他の刀剣たちに比べれば心を開きやすいのか、
よく声をかけてもらう――どころか、こうして時間がある時には手合わせに付き合ってもらうくらい、よくしてもらっていた。
…同じ写し、ではあるけれど、私と山姥切さんの原典へ対する劣等感や引け目といった感情はまったくの別物。
無名の刀の写しである私と、霊剣の写しである山姥切さん――その原典の格の差が故に、私たちの引け目は真逆の位置にあるといってもいい。
でも、きっとその引け目の大本になっている要因は、私も山姥切さんも同じだと思う。
……結局のところ、自分に自信が持てないから、原典に対して劣等感やらを抱いてしまうんだ。
自信をつける――それは実力をつけるよりもきっと難しい。
虚栄、己惚れではなく、本当に自分の力を本物だと信頼することは、自分を知り、その弱さも含めて認めるということだから。
その自分を知る最も簡単な方法――それは他人と比較すること。
他人と比較することでしか自分を知ることができないというのも、なんともいえない話だけれど、
他あっての個である以上、それは一つの手段として確かなもの――
――だから手合わせは、自分の実力を知る上でも、自信をつける上でもとても重要な修行の形だった。
主から分け与えられた気力で刀身を強化して、更に機動力や腕力も強化して相手に――山姥切さんに向かっていく。
けれど、私の攻撃は簡単に受け止められて――押し返されてしまう。
攻撃を容易に止められてしまい、心に湧くのは悔しさ。
ぐっとそれをかみ締めながらも、間をおかずに再度悠然と構えている山姥切さんに向かって切り込んでいく。でも――
「くっ……!」
「――…次はこちらから行くぞ」
私の攻撃を受け止めた山姥切さんはそう言って、
先ほどよりも強い力で私を押し返し――宣言通りに刀を構え私に向かってきた。
山姥切さんが私よりも力があることは、攻撃を受け止められてしまった時点で明白で。
私がさっきの山姥切さんにみたいに攻撃を受け止める、なんてことはできても成功はしない。
だから私がとるべき行動は一つに限られている。それは――回避、だ。
山姥切さんの攻撃を、すれすれながらも余裕を持ってかわしていく。
未だ反撃の期は訪れないけれど、隙のない攻撃は永遠には続かない。
だからその「期」が来た時が――私の唯一向きの勝負の時だった。
原点の性質か、前の主の特徴か――私には若干の先見の能力が備わっている。
――と言ってもそれはものの1秒足らずで、遠い未来を見通せるわけじゃない。
でも、この能力のおかげで、相手の攻撃を回避することが容易になっていることは確かだった。――けど、
「っ…!」
「――――」
私の体に触れるか触れないかの位置で止められた――山姥切さんの刀。
…もし、山姥切さんが手を止めず刀を振り降ろしていれば、確実に私は破壊されていた。
要するに――私はもう、負けたんだ。
山姥切さんが刀を引き、私から少し距離をとる。それにあわせて私も刀を引く。
そして、少しの距離を置いて向かい合う形になって――私は「ありがとうございました」と言って大きく頭を下げた。
私の最大の武器は回避能力。先を読んで、危険を察知して、攻撃をかわす。
それが私の武器、なのだけれど――時に反応が、追いつかない時がある。
わかっていても、体が動かない――まさに今、山姥切さんに負けた敗因がそれ、だった。
数度繰り返した手合わせ。
その全てで敗北を記した私――しかも、それが全て同じ敗因だから笑えない。
思わず小さいため息を漏らしながら頭を上げれば――山姥切さんは何処か不機嫌そうな表情でこちらを見ていた。
「……あの…山姥切さん…?」
「…昨日の今日で、俺に勝てると思っているのか」
「ぁ……」
思わず、間抜けな声が漏れる。
あまりにも、山姥切さんの言葉が当たり前のことで――自分の考えが馬鹿げていたから。
昨日も、一昨日も、その前からずっと――私は山姥切さんに勝てずにいる。
なのに――急に、なんのきっかけもなく、私が山姥切さんに勝てる道理なんてない。
これまでの鍛錬で何か手応えがあったならまだしも、そんなもの一つもないのに、
負けてしまったことを落ち込むなんて――酷い思い上がりだ。
「そう…ですよね。私が、いきなり山姥切さんに勝てるはずありませんよね」
「…………」
「――でも、いつかは勝たせてもらいます」
「――…できるものならな」
静かにそう言って、山姥切さんは私に背を向けてその場を立ち去る。
その背に向かって再度「ありがとうございました」と言って頭を下げ、
少しの間をおいてから顔を上げれば、既に山姥切さんの姿はその場から消えていた。
胸に溜まっていた空気を吐き出す――けれど、それはため息じゃない。
気持ちを前向きに切り替えたんだから、それを逆戻りさせるようなことはしない。
吸い込む息と一緒に心にやる気を注入して、小さき「よしっ」と気合を入れて、
私は今の自分にできること――内番の手伝いをしようと決めた。
片づけが済んだら部屋に来て欲しい――そう、主が言ったのは私が夕食の片づけをしていた時。
唐突な主の呼び出しに、思わず生返事を返してしまったけれど、夕食の後片付けを終えた私はちゃんと主の部屋に訪れていた。
「失礼します」と断ってから入った主の部屋には、主――と、なぜか和泉さんがいる。
意外な組み合わせに思わず面食らってしまって、その場に固まっていると、
ふと主が苦笑いを浮かべて自分の前に――机を挟んで主の前に当たる席に腰を下ろせと言う。
主に気遣われてしまったことを恥ずかしく思いながら、そそくさと主の指す席に腰を下ろし、
真っ直ぐと主の顔を見れば――なぜか主は微妙な表情を見せた。
「……おい。もう決めたことだろ」
「ぅ、うむ……」
黙る主に、和泉さんが呆れた表情で言う。
その和泉さんの言葉を受けた主は、同調の言葉を返しかながらも困惑の混じる表情を浮かべ、眉間には深いシワを寄せている。
…わかってはいるけれど、納得してはいない――そんな感じだった。
主が私になにを言おうとしているのか、なにに納得していないのか――
――疑問はたくさんあるけれど、その疑問を主にぶつけることはしない。
だって主を急かす様なことはしたくない――し、急かしてもすぐには答えが返ってきそうにはないから。
渋い表情で黙りこくる主を前に、私も黙って主の言葉を待つ。
この沈黙を、和泉さんは無駄な時間と感じているのか、その端正な顔には苛立ちの色が浮かんでいる――けれど、
もう一度主の尻を叩くつもりはないみたいで、苛立った様子ながらも目を伏せ沈黙していた。
「……」
遂に口を開いた主。
一体なにを言われるのだろう――いや、およそなにを言われるかは理解しながら主に「はい」と答える。
すると主は大きく深呼吸して――「お前には――」と、切り出した。
「――明日、出陣してもらいたい」
「!」
想像が現実のものになった――でもそんなことより「嬉しい」のは出陣できること。
…ううん違う。本当に嬉しいのは主が私を一戦力として認めてくれたこと。
そして――主の力(かたな)として、自分の力を揮えることが何より嬉しいんだ。
「隊長は和泉。他隊員は次郎姐さん、山姥切、鯰尾、前田だ」
一緒に戦うことになる仲間たちの名を聞かされ、無意識に視線は斜め右に座っている和泉さんに向く。
でも、主の言おうとしていたことを知っていたはずの和泉さんに反応といえる反応はなくて、先ほどと変わらず目をつぶって黙っていた。
和泉さんに向けていた視線を主に戻せば、主は少し心配そうな表情を浮かべて「頼まれてくれるか?」と尋ねてくる。
心配されている――未だ私の力に不安を覚えられている、それが少し心に影を差したけれど、
それをぐっと飲み込んで――私は自信を持って主に「はい」と了解を返した。
これは、またとない好機だ。
ここで、戦果をあげれば、主は私を完全に一戦力として認めてくれる。
そうすれば、これまで以上に主の力になることが――主の役に立つことができる…!
「…出陣にはもちろん私も付いていく。ただ私はお前たちのそばにはいられないんだ」
「……そう、だったんですか…?」
「ああ。私が下手に出張ると検非違使を呼び寄せることになるんでな。
…だから現場の指揮は隊長の和泉が執ることになる」
そう言われ、つい視線が向くのは和泉さん。伏せていた目を開いた和泉さんの視線は主に向かっている。
そして視線を向ける和泉さんの表情は何処か面倒そうで――
――その視線を受ける主は、どこか申し訳なさそうな色を含んだ苦笑いを浮かべていた。
ふと主に名前を呼ばれて、改めて視線を主に向ける。
その僅かな間に主の表情は平然としたものに変わり、先ほどまでからは考えられないくらい落ち着いた様子で口を開いた。
「現場での和泉の指示は、私の指示――と思ってくれ」
「…それ、は……?」
「――とにかく、オレに逆らうなってことだ」
「!」
「…まぁ、簡単に言えばそういう事だな」
和泉さんと主の言葉に――どうしても、悔しさがにじむ。
隊長の指示に従え、逆らうな――それは極々普通、当然のこと。
でも、私を率いる隊長が和泉さん、となるとちょっと事情が変わる。
和泉さんは新撰組の副長の刀で、同じく新撰組隊士の刀である私の原典を知っているらしくて、
なにかと世話を焼いてもらっている――というか、なにかと小言が多いというかなんというか…。
…要するところ、和泉さんは主と同じで私を戦場に出すことを敬遠している人、なのだ。
だからきっと――出陣しても、私は後方に、援護に回ることになるんだろう。…でも、だ。
「わかりました。ちゃんと、和泉さんの指示に従います」
「!」
「………」
私の答えに主は少し驚いた表情をみせて、和泉さんはどこか苦々しい表情をみせる。
…きっと、私が嫌々ながら応じる、と思っていたんだろう。確かに、和泉さんの指示で後方に下げられることはいや、だ。
でも、それでも戦場に出て、少しでも主の力になれるのであれば――この程度、さしたる問題じゃない。
それに、後方に下がることは、戦力外になることじゃない。
ちゃんと、後方には後方の戦い方、貢献の仕方がある以上――腐ってなんていられなかった。
「私、頑張ります。主のお役に立てるように」
「……」
笑顔で言葉を続ければ、主はうわ言と口にするように私の名を口にする。
その沈黙が少し、続いたけれど、ふと主が苦笑いを浮かべたかと思うと、すぐにその表情を柔らかい笑顔に変えた。
「ああ、頼りにしているぞ、」
「はいっ!」
■あとがき
なんかよくわからん打刀主の話でした。なんか書こうと思って書いたら、着地点見失いましたー(笑)
まんばちゃんとと打刀主は何気に仲がいいといいです。兄妹的に。してそれを国広くんがほのぼの見守っていればいいです(笑)
このお話の番外話は二つありまして、コチラとコチラになります。前者まんばちゃん、後者和泉さんが本編主との会話話になります。