寒い。寒い。寒い――…な。
「…――ぁ゛?」
寒さという不快感に耐え切れず、意識が浮上する――とほぼ同時、
体の方も半ば無意識に動いて、気づけば状況を確認できるほどに思考はクリアになっていた。
――ただ、だからって確認した状況を理解できるかどうかは、また別の問題だけれど。
「……………………あ゛?」
目に映ったのは暗い廊下。
相当の時間――…いや、期間に亘って人が踏み入っていないのか、
フローリング………年季の入った木製の床、にはいっそ見事というほどの埃が積もっている。
……うちの蔵も、定期的に掃除しないとこういう状態になるんだろうなぁー…。
「……」
木造の、趣きある、人工光の乏しいお屋敷――であることは、どちらも違いない。文字列だけを言えば。
確かに私の大社は木造で、現代的なスタイリッシュさとは縁遠い趣きある、ある意味で前時代的な建造物――だ、和風の。
それに対し、今私がいる屋敷は明らかに洋風。
…映画やゲームで見るようなアレでソレ――…
…大量のゾンビが出てきてパニックホラー的な展開になったとしても、絵面的にはなんの違和感もないだろうレベルだ。
――…とはいえ、そんなことになったら疑問と不満は止めど無く噴き出すだろうけどねぇ…。
「一体何が……」
とりあえず、自分の身に尋常ではない「なにか」が起きた――ことは、間違いないだろう。
ライトファンタジー的に言うところの「転移」にほど近い気がするこの状況――
…シャーマニズムに半身浸かっている身とはいえ、デジタル技術の進歩した現代日本に生きる私が、
ファンタジーがスタンダードな世界で常識で考えを巡らせたところで、原因どころかきっかけさえ思い当たる節はない――
…というか、仮に原因が分かっても理解ができないと思うなーぁ…。
「…?……?、??」
今の状況から情報を得られないのなら、それ以前の状況から情報を探ればいい――…のは尤もなのだけど、
どうやらそこはすっぽ抜けてしまっている――………いや…これはなんというか――…
「(……コレが…原因、か……?)」
何とか自分の身に何が起きたのかを思い出そうと記憶の糸をたどる――
――けれど、その途中で頭に不快な鈍い痛みが奔り、まるでとぐろを巻く蛇のように不快感が全身を這いまわる。
なにかがあった――とても不快で、とても苦しいなにかがあった――…でも、それを思い出すことを私の本能が拒絶していた。
記憶を思い出せば事態はきっと好転する――…という確証はない以上、ここで無理をする必要はない――だろう。たぶん。
これがただの夢だったなら、無理を冒したところでどうということはないけれど、もしこれが現実であったなら――…今は、無茶を犯すべき場面じゃない。
……でも、無茶と感じるほどの負荷とは一体――
「なんだなんだ」
「どうしたどうした」
思い出せない記憶に、今は蓋をしておくべき――と理解しながらも過る疑問に頭をひねろうとした――
――その矢先、不意に聞こえてきたのは複数の男の声。
言葉が通じるかもしれない存在の登場は願ってもないこと――ではあるのだけれど、とはいえさすがにコレは相手を選びたい。
ものすごく広い意味で括れば相手も人間――かもしれないけど!あちら死人だよ!!
「おや?おやおや?どーしてここに人間が?」
「いやいやそれは確かに不思議だが――コイツ、女だぞ!」
「!?」
――なにを思ったか、幽霊の一人が下品な笑みを浮かべ愉しげに「女」と声を上げる。
そしてその声に触発された残りの幽霊たち――も、不意にニヤリと不快な笑みを浮かべ、無遠慮に私に対していやらしい視線を向ける。
…そして幽霊たちは獲物をいたぶる捕食者のように、まるで恐怖心を煽るかのようににじりにじりとこちらとの距離を詰めてくる。
…相手が油断している今なら、この危機から離脱できるかもしれない――
――そう考えが至れば行動は早かった。――相手の。
「ぐぼぉファー!?!」
「「??!」」
逃げ出そうとした獲物の動きを見逃さず、逃がすものかと私の肩を掴んだ幽霊――が、仲間の幽霊たちの間を豪速で通り抜ける。
…因みにそれは彼の意思――ではなく、私の物理行使によって、だった。
ゲームであれば、霊体であっても物理攻撃が通ることもしばしば――だけれど霊とは本来、姿は見えても触れられない人外。
ご都合主義のゲームでもなければ、拳で殴ったところでダメージは通らない――というか触れられもしないモノ、
…なんだけれど、そこは独自のシャーマニズムを持つ極東の巫女だけに、西洋ファンタジーの常識なぞは通用しない。
……ん?神道と仏教は別ものだろうって?それはまぁ――明治以降は、ね?
「殴った!?」
「殴られた?!」
「「ゴーストなのに!!?」」
ありえないだろう現実に、2人の幽霊たちは白い顔を青くしてズササ!と後ろへ引き下がる。
…こちらから言わせれば、彼らの存在自体が「ありえない」――のだけれど、
兎にも角にも殴り飛ばせるのなら幽霊だろうと、物理的にはそこらのチンピラと大差ない。
それにどうわけやら彼らは幽霊――未練の塊であるはずなのに、まったくと言っていいほど負や穢れまとっていない。
怨嗟にまみれた魂だったなら対処は困難を極める――…けれどこれだけ明るく陽気なゴーストなら………。
「ボス!ボスー!大変です〜!」
「変な人間がオーナーの部屋の前にー!!」
ゴーストとの会話から情報を得ることも可能だろうか――と思ったその矢先、ゴーストたちが必死な様子で「ボス」と呼ぶ。
その光景に「マズい」と言葉がよぎった――のが後か先か、強烈な殺気が身に刺さると同時に足元から黒いなにかが湧く。
得体が知れない――以上に、ずおと湧く黒いなにかから滲む妖気に、本能が先行してその場から飛び退いた。
とりあえず、危険と距離をとった――けれどもこの程度では安全圏とは言い難い。
油断せずとも一瞬で呑み込まれるだろう距離――その先に浮いているのは黒衣を纏った一人のゴースト。
手下だろうゴーストたちとは存在感がまるで違う――以前にそもそもサイズが違った。
手下たちよりも二回りは大きいだろう黒衣のゴーストの、
マントの奥から覗く青い目が私の目を捕らえた――その瞬間、背筋をゾクリと殺意が奔り抜けた。
「……噂も廃れ、試練に挑む者も絶えたと思っていたが…まだ、身の程を知らぬ若造がいた――…………ぅん…?」
不意に、黒衣のゴーストの視線に宿っていた感情がフラットになる。
明らかにこちらを訝しんでいる――が、そこに敵意や害意はのっていない。
どういうわけやら半ば矛を収めたような状態になっている黒衣のゴースト――に、一番驚いているのは手下のゴーストたちで。
ボスの考えの読めない行動に動揺しているのか、手下たちはわたわたと互いに顔を見合わせていた。
「……貴様、名は?」
長い沈黙を破ったのは黒衣のゴースト。
名を尋ねてくるゴースト……という構図に、少しばかり懸念を覚えた――
――けれどここで「かもしれない」程度の可能性に躊躇して危険の機嫌を損ねるのはおそらく悪手。
楽観視が過ぎる――…かもしれないけれど、相手は殺意も怒りも引っ込めて、更には敵意すら引っ込めている。
…であれば、相手がゴーストであっても大丈夫なはずだ。たぶん、おそらく、きっと。
「……、です…」
「……………?」
問われた通りに名前を答えれば、黒衣のゴーストはどこか言いづらそうに私の名前を口にする。
…現状、私の認識では今、日本語を話している――し、相手の言葉は日本語に聞こえているのだけれど……
…何らかの仕掛けで互いの公用語に変換されている、んだろうか…。
またしても訪れる沈黙。ある意味でどうもこうもない状態だけに、相手に投げる言葉もかける言葉も思いつかず、
黒衣のゴーストのうしろで戸惑っている手下のゴーストたちと同じく、黙って大人しく黒衣のゴーストの判断を待っている――と、
「ボス〜!火を噴く狸がぁ〜〜〜」
「………なんだそれは…」
不意ににゅっと床から姿を見せるのは、疲弊した様子で助けを求めるゴースト。
火を噴く狸――という呑み込みにくい話に現実味を含ませるのは彼がまとう焦げ臭さ。
……しかしその原因が「火を噴く狸」………分福茶釜?……いや、あの話の狸に火を噴く描写はないけど…。
「――お前たち、この娘を連れて下へ来い。…抵抗しない限りは、手荒には扱うな」
「ぇ――ボス?!」
手下の返事も聞かず、黒衣のゴーストは床から現れたゴーストと共に床――おそらく下の階層へ降りていく。
そして上階に残された2人――…いや、厳密には3人のゴーストと私は――
「――立てるかい?」
「だ、大丈夫…です…。腰は抜けてないので――…それより連れの……」
「…………――うん、まぁ大丈夫だろう。気絶してるだけだ」
「(……幽霊って気絶するんだ…)」
気絶――とは、何らかの要因によって脳の血流が遮断されることで起きる意識の障害。
理論的に考えれば、血の通っていない幽霊にそれは起こり得ないこと――…のはずだけれど、ゴーストも普通に気絶するらしい。
うーん…魂消る――ってヤツかねぇ…?……いや、待て。
ゴーストから魂消たらなにも残らないんじゃ?…明らかにガワは残ってるけど…。
疑問が謎を呼ぶゴースト原理に無駄な好奇心を刺激される――ものの、
今それをどうこうしていい場面なわけがなく、2人のゴーストたちに案内されるまま、廊下と同じ雰囲気を持つ木造の洋風階段を降りていく。
…どうやら私が居たのは二階だったようで、あっという間に最下層――一階へたどり着いた。
「さて」と1人のゴーストが辺りを見渡せば、「あ!」と言って問題の起きている方を指差す。
指差されるままそちらに視線を向ければ、そこには手下のゴーストたちを従えた黒衣のゴースト――が、黒い子猫ほどの大きさの何かを握り、
シルクハットに仮面に、黒い羽根をモチーフにしたような個性的なコートを肩にかけた男性と睨みあっている――よう、だった。
「(……だいぶピリついてらっしゃる…)」
おそらく、床から現れたゴーストの証言は正しかった――から、
黒衣のゴーストは火を噴く狸に対して制裁を与えようとした――けれど、
それに火を噴く狸――の主だろう仮面の男が「待った」をかけた、といったトコロだろうか…。
…なんとも物々し過ぎる光景に、この場に留まって事の成り行きを見守っていようか――と、思ったけれど前提が変わった。
「巫女…さん…?」
仮面の男の影――に隠れていたのは小柄な人影。
黒のローブを目深に被り、表情どころか性別さえわからない――…けれどそのローブの奥から漏れ出た声は驚いたような少女の声。
うん、まぁ、それは正直どうでもよくて、なにより重要なのは彼女(?)が口にした単語――と、そのイントネーション。
これが偶然の一致でないとするならば――
「そちら!日本人の方ですか!」
「!――はい!その通りです!!」
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